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縁起・歴史

■1.開創

行讃上人
行讃上人

寺の開創は非常に古く、平安時代初期、大同二年(八〇七) 三月で、最初天台宗に属していた。

天台学匠行讃がくしょうぎょうさん上人(西金砂山開闢かいびゃく、乃ち開祖宝珠ほうじゅ上人の師)が開祖である。

上人が、金砂山開闢の折、定源寺じょうげんじ神仏混淆しんぶつこんこうの頃金砂山にあった寺) にて、権現の霊夢れいむを受け、蓮華上に舎利しゃり(釈迦のお骨)があり、又、菊花が咲き乱れ、そこから三種各々霊光を放つのを御覧になった。

その場所は金砂山からちょうど西の峰の方であった。そこで、その場所に一寺を建立し、寺号を《舎利山三光院菊蓮寺》と名付け、金砂権現を以て当寺の鎮守とした。金砂山開山(大同元年~八〇六) の翌年である。


■2.再建・中興開山

冏察上人(入定尊)
冏察上人(入定尊)

しかし、四十九代、六百三十四年を経て一時廃寺となったが、寛政六年(一四六五年) 四月八日村人たちの熱心な勧請によって、那珂郡瓜連の常福寺第二代、浄土宗代第七祖、了誉聖冏りょうよしょうげい上人(二十六夜尊)の弟子、菊蓮社覚誉冏察きくれんじゃかくよげいさつ上人(入定尊にゅうじょうそん) が四十八歳で入院、堂宇を再建し、中興開山となり、浄土宗に改宗するとともに浄土念仏法門を宣布し、村人大いに帰依した。

以来四十代、天台宗から数えて八十九代、現在に至っている。

入定尊霊廟
入定尊霊廟

冏察げいさつ上人(入定尊にゅうじょうそん) は、那珂郡岩瀬城主(現常陸大宮市)白石志摩の守吉光の舎弟重光の嫡子で、四歳の時に出家剃髪しゅっけていはつし、修行を積み、念仏法門を宣布し、明応七年(一四九八) 三月三日、八十一歳で当寺後方の鷹巣西高峰たかすにしたかみね入定にゅうじょう(生きながら仏になること)された。
上人入定し給う時、誓願を起こして曰く、

われ出生の時、母君大いに艱難かんなん苦悩し給いしと聞く。故に母君苦悩の恩を報ぜんが為に、吾定中じょうちゅうに於いて一切の女人を守護し、安産せしめん」
と、念仏しながら仏となられた。


この冏察げいさつ上人(入定尊にゅうじょうそん) にちなんで五百年以上に亘り安産祈願が行われており、入定尊は、世の尊信深い安産守護仏であり、一切の生産安泰の守護仏である。

大正三年三月三日、三十七代実誉覚存じつよかくぞん上人は、檀信徒、総代、世話人有志心一つに合わせ、浄財を勧募し、入定地上(鷹巣西高峰山頂) に石室の宝龕ほうがんを建立、昭和三十一年三月には入定尊五百年遠忌を厳修した。その後七十年近い星霜をを経る中で風雨に曝され続けた宝龕ほうがんの老朽化が進み、それを憂いた有志の発願と協力を得て、昭和六十二年九月、第三十九代悌誉覚仁代の時にレンガで新たに宝龕ほうがん霊廟れいびょうを再建、翌六十三年には約五十年ぶりに開山忌を復活し現在に至っている。


■3.本堂の修復・改築

享保2年に再建された本堂は、昭和48年~39代悌誉覚仁代に茅葺き屋根を瓦葺きに改修し、その後も修復を加えつつ、平成16年から19年まで~40代観誉仁人代に、足かけ4年をかけて檀信徒・総代世話人一同心を束ね新本堂に改築。
更に平成27年には菊蓮寺開創以来初となる鐘楼堂が新たに完成し、面目を一新した。

大正2年当時の菊蓮寺全景

大正2年当時の菊蓮寺全景
本堂を中心にして、左が小学校(金砂小分校) 右が庫裏・客殿

昭和46年頃の前本堂

昭和46年頃の前本堂

屋根改修後の前本堂

屋根改修後の前本堂